地名のゆらい
「野村」
高岡は昔、関野と呼ばれていました。その後、上関野村と下関野村にわかれ、下関野村が野村と下関村になったといわれています。当時は八つの村が集まっていたので、野村八ケ村といわれていました。

いいつたえ
大長
江戸時代の終わりごろに生まれた人で、大工のとうりょう、幼名が長右エ門、人呼んで「大長」。大長は働くところのない貧しい人たちを助けるため、庄川に橋をかけることを殿さまにおねがいし、橋の工事の仕事を与えたと言われています。橋は今の大門大橋で、当時は大長橋と呼ばれていました。
橋のけんせつがうまくいくように、「お天とうさま、もし雨がふらなければ、わしは死ぬまで笠をかぶりません。」とおいのりをした。いのりが通じたのか、工事の間はお天気つづきで、見事な橋ができあがった。大長はその後、雨が降ってずぶぬれになってもぜったいに笠をかぶらなかったということです。

こんなところがあるよ
吉田藤助(とうすけ)の碑
藤助は明治時代の人です。16才で父親を死に別れてから、おさない弟や妹をやしなうため、一家の大黒柱として働いていました。
彼は村一番の力持ちで、村のほこりでもありました。 横田のありそ神社でばんもち大会(米だわらや岩を持ち上げて重さを競う大会)があり、藤助も出場しました。 藤助の順番が回ってきたとき、藤助は米だわら五ひょう(約三〇〇キロ)をはしごの両はしにつけるよう命じました。五ひょうはいままで、誰もあげたことのないたいへんな重さです。大ぜいの観客たちはかたずをのんで見守りました。
藤助はしゃがんで、はしごをガシッと肩にのせると、「むー!!」とうなり、一気に足をのばし立ち上
がりました。観客は大喜びです。
藤助は「どうじゃ、このたわらをほおり投げてやろうか!」というと、米だわらのついたはしごを高々と持ち上げ、「えーい!」とのかけ声とともに、投げ飛ばした。
観客はやんややんやのおおさわぎで、「藤助が一番じゃ!藤助が高岡一の力持ちじゃ。」と喜び、その後も高岡では藤助のことを知らない者はいないほどだったと言います。
その後も大会は何度もありましたが、藤助に勝つ者はいなかったということです。

クイズ
奈良時代、越中国守(こくしゅ)大伴家持(おおとものやかもち)がたか狩りをした、現在の石瀬は何と呼ばれていたでしょう。

答 え