今ではたくさんの人が住んでいる私たちのまち「高岡」。むかし、高岡という名前がつけられる前には、関野神社と小さな村がポツリポツリ。そんなところにどうして高岡の町ができたのでしょう。
前田利家(まえだとしいえ、加賀百万石をつくった武将)の長男の利長(としなが)は、加賀の国に金沢に次いで高岡にもお城をたてたいと思いました。
中国の古いうたに、「鳳凰(ほうおう)鳴けり、かの高き岡に・・・」というまちの幸せをねがったうたがあります。そこから利長は高岡という地名をつけ、今の古城公園の場所に高岡城をたてました。そして、金沢からたくさんの家来をつれてきました。またあちこちの村や町から職人や商人を呼びよせてまちづくりをおこなったのです。
江戸時代のはじめのころのことです。
利長には子供がいませんでした。そこで自分のあととりとして、腹ちがいの弟の利常(としつね)を養子にし利常は金沢城に、利長は高岡城に住んで、それぞれのまちをつくっていきました。
利長が死んだあと、「自分の国にお城は一つしか持ってはならぬ」というきまりがつくられました。
利常は、やむをえず高岡城をこわしてしまいました。お城がなくなった高岡から、家来たちはいっせいに金沢に帰ってしまいました。そして商人たちも人のいなくなった高岡から出て行くようになりました。
しかし、利常は利長がつくったこのすばらしいまちを大切にのこしたいと思い、商人たちが出て行くのを禁止し、商人たちにとって住みやすいまちづくりを行い、活気あるまちにしたのです。そして、金沢は武士と政治のまち、高岡は町人と商売のまち、加賀百万石の商都としてこんにちまで栄えたのです。
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●むかしの高岡の地図で自分の家や学校がどのあたりか探してみよう。
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| ・江戸時代の地図 |
・大正時代の地図 |
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