●前田利長(まえだとしなが)が高岡城でくらしたのは5年間ほどですが、その間に城下町(じょうかまち)を作っています。これが高岡の始まりです。
そのころ、高岡は「関野(せきの)」とよばれていました。 なぜ高岡になったのでしょうか?
高岡の地名(ちめい)は1609年「高おか」「高丘」から後に中国の詩経(しきょう)の鳳凰鳴けり・干彼高岡(ほうおうなけり・かのたかきおかに)より「高岡」となりました。
これは中国に平和な時代をもたらした君主(くんしゅ)をたたえた詩(し)で、利長は豊かで平和な土地にしたいと願いつけたのではないでしょうか。
|
 |
小矢部川と千保川の合流点に木町を設け、物資(ぶっし)の中継点(ちゅけいてん)としました。また、北陸道の道順(みちじゅん)も変更(へんこう)し高岡を水陸交通(すいりくこうつう)の中心とし人と物が集まるようにしました。
高岡の町名は、町が出来た順・仕事により住む場所が決まっていました。たとえば、風呂屋町(ふろや)・桶屋町(おけや)・大工町などです。
また、今の戸出の西部金屋(にしぶかなや)より7人の鋳物職人(いものしょくにん)をよび金屋町をつくりました。
高岡城に入りわずか5年で前田利長はしんでしまいました。その次の年高岡城もこわされることになりました。利長が死に、城もなくなり、たくさんの人が金沢にもどり、高岡の町は急にさびれ始めました。前田利常(まえだとしつね)は高岡町人の転出を禁止(きんし)し、城下町(じょうかまち)から商工業(しょうこうぎょう)の町にすることでした。
藩主(はんしゅ)が泊(と)まる場所として「御旅屋(おたや)」をつくり、砺波の特産だった布(ぬの)を取引(とりひき)する市場を設け、川原町には魚問屋をおき、綿(めん)の問屋をおき、建物がなくなった城には米蔵(こめぐら)もつくり商工業(しょうこうぎょう)の町にうまれかわりました。 |